- 室町時代の清浄華院
室町時代の清浄華院は当時のメインストリートとも言える室町通りに面して伽藍を構えていました。
ここは当時の御所や将軍の邸宅「室町第」にも近く、都の中心ともいえる場所でした。当時の記録には、清浄華院が法華八講(武家八講)や将軍拝謁に訪れる要人の宿所、または幕府の催事の控えとなったという記事が多く登場してきます。また清浄華院には皇室の典籍などを納める藏もあった様で、公家がその典籍を借りに来たり、兵乱の時に家伝の宝物を預けに来たりといった記述も見られます。
清浄華院がこの時代に朝廷や幕府と強い結び付きを持つようになったのは、歴代の活躍と共に、この立地によるものも大きかったのでしょう。 室町時代の清浄華院の栄華の舞台となったこの地には現在も「元浄花院町」という町内が残っています。
- 清浄華院と『泣不動縁起』絵巻
さて、清浄華院に伝わる重要文化財『泣不動縁起』絵巻(以下、清浄華院本と表記します)ですが、この絵巻が描かれたのはちょうどこの頃、室町時代初め頃と言われています。
清浄華院本の伝来については、江戸時代の中ごろに入江孝治という人物が清浄華院に寄進してくれたことが分かっています。入江孝治についてはどういった人物かよく分かっていませんが、京狩野の絵師・狩野永納より絵巻を譲られ、泣不動尊ゆかりの品として清浄華院に寄進してくれたようです。つまり、絵巻はそれ以前の清浄華院には無かったことになります。
一方、清浄華院の古文書と寺伝による泣不動尊の史料上の初出は、永享九年(1437)第十一世良秀上人による『清浄華院之由記』になります。この記事を信用するなら、泣不動尊像は室町時代の清浄華院にあったわけで、清浄華院本もそれを宣伝する為清浄華院が製作させたものということになりそうですが・・・
この点についてはよく分かりません。狩野永納が手に入れる以前の清浄華院本の伝来はよく分かっていないからです。
- 中世における『泣不動縁起』絵巻の伝来
江戸時代以前の伝来を調べてみると、時代は下りますが天文19年(1550)清浄華院の檀家でもある公家の山科言継が御所の「大所(台所)」から「鳴不動絵」を借りて老母に見せたという記録があります。中世には「泣不動」ではなく「鳴不動」「啼不動」と表記する事例もあり、また絵巻のことを「○○絵」と記すことも多いですのでここで出て来る「鳴不動絵」とは泣不動尊の物語を描いた絵巻であったと考えられます。
これだけではいくつかある『泣不動縁起』絵巻の類本のどれを指しているのか分かりませんが、それを知る資料として奈良国立博物館本『泣不動縁起』絵巻(以下奈良博本)があります。これは禁裏絵所預・土佐光茂が製作したと考えられています。光茂が活躍したのは16世紀中頃、山科言継の時代と同時代であり、どちらも御所出入りの人物ですから、言継が借りた「鳴不動絵」と土佐光茂が見本とした絵巻は同じ物であったと考えるのが順当でしょう。
さらに、奈良博本の内容を清浄華院本と比べてみると、人物の着物や襖絵など、細部の文様に相違があるだけで、両者はほぼ同一の物になっています。しかし奈良博本には写し損ないや足されたらしい部分が見られ、筆致も時代が下ると見られ、清浄華院本を見本として写されたものと考えられています。
土佐光茂は禁裏絵所預、即ち宮中お抱えの絵師でしたし、言継も内蔵頭として宮中に出入りした人物です。こうしたことを勘案すると、二人が見た絵巻は同じ物であり、そしてそれは清浄華院本『泣不動縁起』であった、と言うことが出来そうです。
- 清浄華院本『泣不動縁起』絵巻の特徴清浄華院本の稚児
ところで、『泣不動縁起』絵巻には数点類本が伝わっていますが、最も古い物は東京国立博物館本『不動利益縁起』(以下東博本)になります。清浄華院本も大まかな構成はこの東博本を習っていますが、建物の配置などの構図はかなり違っています。そして一番大きな違いは絵のみで詞書(ことばがき)が無いことです。
ストーリーを文章で記す詞書を省略するのは絵巻物としては異色ですが、場面場面を区切る雲や紙のの継ぎ目を見ても、当初より詞書は無かったものと考えられています。これについては現行の研究では、三井寺の泣不動のお話があまりにも有名であったため省かれた、と考えられています。
東博本と清浄華院本を比較すると、もう一点改編されているところがあります。それは、証空に付き添う稚児が書き足されていることです。
実のところ、東博本は前半が失われており、証空の母との別れの場面以降しか無く、最後の帰郷のシーンもありません。東博本の現存部分で証空が登場する場面は、「母との別れ」、「智興の快復」、「苦しみ、不動尊像にすがる証空」の三箇所だけとなりますが、まったく稚児は描かれていません。 ところが、清浄華院本には証空が登場するシーンには必ずと言っていい程、浅黄色の直垂を着た稚児が描かれています。
大阪逸翁美術館には『証空絵詞残欠』という名で『泣不動縁起』絵巻の断簡(絵巻がバラバラになった一部)が伝わっています。「苦しみ、不動尊像にすがる証空」の場面だけが残っているのですが、比較してみると、建物の向きや人物の配置などは清浄華院本と同じですが、証空に付き添う稚児は小僧になってます。
逸翁美術館本は東博本よりは新しく、清浄華院本より古い、南北朝時代の作品と見られています。このことからも清浄華院本が作られる際に稚児が挿入されたということが明確に分かります。
ではなぜ、清浄華院本を作る時、詞書が省かれ、稚児が挿入されることになったのでしょうか。
ここで思い浮かぶのが、『浄華院霊宝縁起』に記された向阿上人と稚児のお話です。
- 製作依頼者は清浄華院!?
清浄華院第五世向阿上人の稚児が師匠の身代わりとなったというこのお話は、長禄三年(1459)『浄華院霊宝縁起』に記されたもので、清浄華院が独自に伝えた泣不動尊の縁起です。稚児を敢えて描き込んだのであれば、製作者は清浄華院が伝えるこのエピソードを知っていたと考えることが出来そうです。
こうしたことをふまえていくと、仮説に過ぎませんが、室町時代に清浄華院本を作らせた製作依頼主は、他ならぬ清浄華院であった、と考えることが出来るのではないでしょうか。
そう考えると、稚児が描き足されたのは、もちろん絵巻に描かれた物語と向阿上人の物語とを繋げる為であったことでしょう。この時、証空は向阿上人になぞらえられて語られる訳です。
しかしそうなると、なぜ新たに絵巻を作ってしまわなかったかということが疑問として残ります。
当時の清浄華院は等凞上人の活躍によって一台栄華を築き上げており、絵巻を一から独自の物語として描かせるぐらいは簡単な事であった事でしょう。
しかし、それでは本来の泣不動の話が取り落とされてしまいます。第一に有名で注目度も高い三井寺の話は、清浄華院の泣不動尊像にとってもアピールポイントの高いものだったでしょう。
清浄華院にとって、向阿上人の物語は勿論大切ではあったでしょうが、三井寺の物語の方が格段に有名です。そこで、三井寺のお話も引き寄せることが出来る様ストーリー構成は変更せずに絵巻を描かせ、そこに稚児を書き添えて独自性を加え、そして詞書を省くことで、両者が敢えて混同するようにする、いわば「どちらの話を語る時でも使える」絵巻を作らせたのではないでしょうか。
こう考えると、詞書がないのも、絵巻に描かれている物語が三井寺の話であることを明確にさせない為であったのではないでしょうか。
皇室の典籍を納める蔵の役割も果たしていた清浄華院ですから、御所を介して言継を初めとする公家衆や、土佐光茂のようなお抱え絵師に絵巻を貸したとも考えられます。諸資料に見える絵巻はこうした状況を反映しているのかもしれません。
とはいえ、清浄華院は応仁の乱にて大打撃を受けていますので、その際に絵巻も手放してしまい、光茂が見本とし、言継が借りた頃には既に清浄華院のものではなかった可能性も高いといえます。
- 謎は謎のまま。
泣不動尊の信仰の原典とも言える『泣不動縁起』絵巻ですが、江戸時代に寄進された訳ですから、もともとは清浄華院とは関係が無かった絵巻とされています。
しかし、清浄華院の中世史を踏まえ詳細に検討してみると、実は本来の持ち主、製作主だった可能性も無いとは言えません。それがめぐり巡って今は元の持ち主の元に返ってきている、そう考えるのもなにか仏縁の巡り合わせを感じさせるようです。
現在見いだされている史料でここまで言うのは妄想に近い物がありますが、謎解きのような感覚で考えてみるのも面白いかもしれません。