清浄華院の逸話

長い歴史を誇る清浄華院には、様々なエピソードが残されています。歴史に大きな足跡を残した人物との関係や京の町との関わり、仏さまや伽藍の事…

 ここでは、清浄華院の逸話について紹介します。

記録上最古の花火興業の寺


 鎌倉時代から清浄華院の檀家である万里小路家。清浄華院の一大栄華を築いた第十世法主・等凞上人の帰依者であった室町時代の当主・万里小路時房の日記『建内記』(『建聖院内府記』)に拠りますと、室町時代の清浄華院で行われた花火のことが出てまいります。
 

『建内記』文安4年(1447)3月21条(翻刻は『大日本史料』を参照)

廿一日、壬子、天霽、仁王経始行歟、浄花院仏事料千疋、「今日」送寺家了、於千疋者来冬可沙汰之由、
先日已談了、
今夜向寺門、初夜如法念仏聴聞之、大炊御門前内大臣信、参会、於同局聴聞之、彼仏事料弐百疋、・諷誦文一通・麻布代百疋、被送之、依親眤之旧好也、初夜了唐人於寺庭有風流事、立竹竿於庭中、垂紙捻并紙裹物等、付火於彼之時、種々形象以火成其躰、薄・桔梗・仙翁花・水車以下之形躰也、又張縄、自一方付火於裹物、彼火伝縄走之、又走帰本方、又称鼠於庭付火於裹物、方々走廻之、又持裹物於手付火、彼飛空中如流星、希代之火術也、又有紙放、其声驚人、聴彼芸、以百疋令下行之、致沙汰云々、

 
 文安4年(1447)、清浄華院では3月17日から24日までの7日間、如法念仏という法要を行っていました。第九世定玄上人の33回忌法要として行われたもので、定玄上人の甥にあたる時房もほぼ毎日参列していたようです。
 
 そして21日の夜、法要が終わった後に余興のためなのか、「唐人」が来て寺の庭で「風流事」を行いました。「唐人」とはおそらく中国、当時の明の人でしょう。清浄華院の信者でもあった六代室町将軍・足利義教が日明貿易を再開した後のことですから、京都に明の人が居てもおかしくありません。
 
 ここでの「風流」とは「ふりゅう」と読んで、「人目を驚かすための飾りや演出」を意味します。この「風流事」がどうやら花火らしいのです。
 
 詳しく見てみますと、一つ目は
「立竹竿於庭中、垂紙捻并紙裹物等、付火於彼之時、種々形象以火成其躰、薄・桔梗・仙翁花・水車以下之形躰也」(竹を庭中に立て、紙縒りや紙包みなどを垂らす。それに火をつけると、火で様々な形になる。それはススキ、キキョウ、センノウケ、水車などの形である。)
 
 二つ目。
「又張縄、自一方付火於裹物、彼火伝縄走之、又走帰本方、」(また、縄を張り、一方より袋物に火をつけると、火が縄を伝って走り、また元へ帰ってくる。)
 
 三つ目。
「又称鼠於庭付火於裹物、方々走廻之、」(また、"ネズミ"といって、庭に火の付いた袋物を置くと、ほうぼうを走り回る。)
 
 四つ目。
「又持裹物於手付火、彼飛空中如流星、」(また、袋物を手に持ち、火を付けると、空中を飛び、流星のごとくである。)
 
 少し飛んで五つ目。
「又有紙放、其声驚人、」(また紙を投げると、その音は人を驚かせた)
 
 打ち上げ花火のようなものではありませんが、噴射式の花火や手持ち花火、導線付きのロケットや爆竹、ネズミ花火らしきものもあり、あきらかに花火でしょう。時房はこれを見て、「希代之火術也」と驚き、「唐人」に「百疋」褒美を与えています。はじめて見たでしょうから驚きと感動はひとしきりだったでしょう。
 
 どうやらこの記事が日本に於ける花火使用の最古の記録のようです。時代はまさに応仁の乱(1467)の20年前。日本の火薬の歴史は、元寇時の「てつはう」から、鉄砲伝来まで飛んでしまうようなので、武器としてではなく、火薬そのものの使用記事としても、貴重な記録のようです。

大殿あれこれ


  • 「畳寺」清浄華院… 

  清浄華院では近年4月末に「畳供養」という法要が行われています。全国畳産業振興会さんが主催し、住宅の床に敷かれる「畳」を供養しようと始められた法要です。
 
 全国畳産業振興会さんが畳供養を清浄華院で行うようになったのは色々とゆかりがあったからなのですが、そのゆかりの一つに畳業界で清浄華院が「畳寺」と呼ばれていた、という事があります。
 
 実は全国畳産業振興会の役員さんが本山のお檀家さんで、「京たたみ」の見学に来られる全国の職人さん達に、沢山の畳が敷き詰められている当院の大殿をご紹介されることが多かったのがきっかけでそう呼ばれるようになったとのことです。
 
 いろいろと調べてみますと、他にも清浄華院には畳にまつわるお話しがありました。

 

  • 畳内陣 

 
通常お寺の本堂は外陣(げじん)と内陣(ないじん)に別れています。本尊さんが居られお坊さんが座るのが内陣、一般の参詣客や壇信徒さん方がお参りされるのが下陣になります。
 
 この内陣・外陣ですが、多くの寺院では、外陣は畳敷き、内陣は板張りになっています。ところが清浄華院の大殿は外陣も内陣も畳敷きなのです。

 現在のように住宅などで畳を床材として床一面に敷き詰めるようになったのは江戸時代になってから。もともと畳は座布団のように人が座る場所にのみ敷く敷物でした。
 
 寺院の内陣はこの平安時代以来の習慣を守り、板張りにしていることが多いのです。人が座る部分(大体部屋の縁側)にのみ畳を敷き、真ん中の板の部分(畳がないので一段下がっている)を水面と見て「海」と呼び、極楽にある「宝地」になぞらえるということもあります。(お経には極楽にある池は方形(四角形)だと書いてあります)
 ということで、清浄華院の大殿の内陣が畳敷きなのは異例…ということになるのですが、調べてみますと江戸時代からこのスタイルを取っていたようで、これには歴史的な意味があるようです。

 清浄華院は歴史的に皇室の帰依篤く、建物が損壊すると御所旧殿の部材の下賜を受け、再建される慣習がありました。大殿や阿弥陀堂などの主要建物が大火などで焼失すると、朝廷に申請し御所に使用された使い古しの建物部材を寄進を受けるという形で下げ渡して貰っていたようです。実際に使い古しであったかはよく分かりませんが、そうした形を取ることで御所と同じ格式をもった建物を使用することが出来ました。
 
 格式の高い瓦の部材「獅子口」や屋根の形式「狐格子」、菊花紋の金具、白線の入った築地塀(筋塀)などはそうした由緒がなければ、使用できませんでした。

 そんなわけで、皇族の住居である建物を移転し仏堂に改造したわけですから… 生活空間であった名残として畳敷きになっている、ということのようなのです。

 現在の建物は明治以降のもので御所建物を下賜されたものではないのですが、江戸時代の絵図を見ても畳の数が書かれていますので、畳内陣であったようです。

 ちょっとこじつけのようですが…本来畳でないところまで畳が敷かれているとは、畳寺にふさわしいではありませんか。
 

  • 皇室帰依ゆかりの特徴 

 
ちなみに清浄華院の大殿には畳内陣以外にも皇室帰依を伝える、ちょっと特殊な部分がいくつかあります。
 
① 尊牌壇 
 大殿東脇陣にある皇族の方々のお位牌を安置する部屋。皇室の帰依の象徴です。
②勅使玄関 
 つぎに建物西に付属する唐破風のせり出し部分。皇族の参拝や勅使が勅使門から輿などの乗り物を降りずに入ることが出来る車寄せです。
③こけら葺き唐破風の向拝 
 江戸時代の大殿は木の皮を重ねて葺いたこけら葺きの屋根でした。これも御所の建築様式を伝えたもの。ただこけら葺きは痛みやすく、明治の再建の際、特徴的な向拝(正面入り口)の唐破風屋根のみこけら葺きを残したようです。
④一段上がった敷居 
 通常の寺院では内陣・外陣の境に丸柱があり、その間には敷居がはまっています。浄土宗寺院ではこの内外陣の境の敷居にあまり段差をもうけません。おそらく僧俗の差を強調しない、平等であるということを表しているのだと思います。 が、清浄華院大殿の敷居には明確な段差が付いています。これも皇族が参列した際に格式の差をもうけるためのものと考えられています。
 

 気付かなければ気付きませんが、いろいろと意味がある特徴のようです。皆さまの菩提寺さんはどうなっておられますでしょうか。

物集女宗入と清浄華院隠居所聖聚院


  • 物集女宗入像物集女宗入像

 
 大殿の一角にお祀りされている小さなお坊さんのお像。平成24年、このお像が現・京都府向日市物集女地区に現存する物集女城の最後の城主のお像であることが判明しました。

 京都の西の要である西岡(京都市西京区・向日市・長岡京界隈)界隈には、室町時代から戦国時代にかけて西岡衆と呼ばれる国人領主が村々に存在していました。城主とか領主というと戦国大名のような存在を想像しますが、大寺院やお公家さんなどの領地を経営(管理・運営)する役人・代官でもあり、どちらかと言えば自分たちの権利を守るために団結した地域のリーダー、といった感じの存在であったようです。
 
 しかし京都近郊に拠点があるため、都で異変があるといち早く駆けつける事が出来、室町将軍家や京都を支配下に置いた武将達もないがしろに出来ない存在でした。

 物集女城はそんな国人領主の一人であった「物集女氏」の拠点でした。物集女氏は室町将軍家や近畿を掌握した三好家にも仕えましたが、その後やってきた新興勢力である織田信長には従わなかったとされています。

 信長は配下の細川藤孝を勝龍寺城(長岡京市)に入れ西岡の支配を任せますが、物集女氏は信長と敵対する丹波の波多野氏と手を結ぶなどして従わず、藤孝を困らせたようです。藤孝は物集女氏を排除するように将軍義昭に進言していますが、義昭にとっては近畿の勢力を敵に回したくなかったのか、聞き入れなかったようです。

 そんな中、天正3年10月、時の城主物集女宗入は細川藤孝によって勝龍寺城下に誘き出され、暗殺されてしまいました。藤孝は西岡の諸勢力に対し権利の保証(安堵)を行い「御礼(服従の挨拶)」を求めましたが、宗入は先祖以来の権利を安堵されるいわれはない、として拒否したとされ、それに対する報復だったようです。

 勝龍寺城下の松井屋敷(一説に米田屋敷)に呼び出された宗入は、藤孝家臣の松井康之に声を掛けられた所を斬りかかられ、脇差しを抜いて応戦しますが、米田求政が康之の応援に駆けつけ、ついに討ち死にしてしまいます。

 藤孝より暗殺の成功を聞いた信長は特にそれを賞する言葉を残しました。しかし義昭が信長に追放された後、信長の支配下で宗入が給領安堵を行った文書があり、信長はそれなりに宗入を認めていたのかもしれません。 藤孝にとって物集女氏の存在は西岡一円支配を任されていながら虫食い状に支配の及ばない場所があるわけで、非常に面白くない事だったことでしょう。敢えて信長がそれを認めていたと言う事ならば、物集女氏の勢力と政治力の高さを示している事にもなるでしょう。

 
 物集女宗入は先祖以来の在地領主としての誇りを貫いて抵抗し、信長にも手を焼かせた人物だったわけです。 

 そんな宗入のお像がなぜ清浄華院に伝わったのかと言えば、これには深い訳があります。
 

  • 物集女聖聚院と隠居所聖聚院

 
 宗入の死後、藤孝は物集女に攻め込み物集女城も破却したとされ、物集女氏は離散してしまったと言われています。しかし物集女村には物集女氏に関係する寺社がいくつか残りました。中には宗入の創建と考えられる寺院もあります。

 その一つが聖聚院。天正3年に宗春法師が開山、「物集女筑前守」が開基となって創建したと伝えています。「物集女筑前守」とは天正から言えば70年ほど前に活躍した人物で本来別人なのですが、天正頃に活躍した物集女氏の当主と考えれば宗入に間違いありません。後の人が追善のために宗入が建立したことにしたのかもしれませんが、いずれにしろ物集女村の聖聚院では、寺を建立した「開基」として「物集女筑前守」こと宗入の供養を行っていたようです。 
 
 宗入が創建した聖聚院はどういう縁か正保年間頃に清浄華院の末寺となります。しかし物集女氏が離散してしまったためか大変貧乏な寺で、記録には度々本山に救援を求める様子が記されています。
 
 そんな中、寛保年間になって清浄華院に隠居所建立の企画が持ち上がります。清浄華院の檀家・東園家に娘・友姫を嫁がせた縁で当院に帰依を寄せていた元徳島藩七代藩主・蜂須賀宗英こと潜外が発願主となり、岡崎村(現左京区)の土地を清浄華院法主(住職)が引退後に住む隠居寺とするために寄進してくれる事になったのです。この場所はどうやら友姫の母の実家跡だったようです。 
 
しかし、当時は新たな寺院を建立する事が禁じられていましたので、何処かの寺院の名跡を移して隠居寺にすることになりました。そこで白羽の矢が立ったのが物集女村の聖聚院でした。

 寛保3年、物集女村聖聚院は清浄華院隠居所として岡崎村に移転します。潜外ゆかりの蜂須賀家の香華所として徳島藩より年貢が納入され、歴代の法主が隠居所として使い、明治まで存続しました。幕末には会津藩士が宿地の一つとして使用していたようです。
 
 岡崎の地は東山を臨む風光明媚な近郊農村として文人墨客が庵を構えていました。聖聚院にもそうした文人達が集まり、サロンを開くようなことがあったようです。

 宝暦2年に初の隠居法主が入りますが、この頃に記されたと見られる過去帳の記事に、天正3年に没した「物集女筑前守」の名が見えます。移転後も宗入は聖聚院で祀られていたわけです。
 
 明治になって、岡崎聖聚院は無住の寺として廃寺となる事になりました。境内に寿松院という寺があったようですが、これは愛知県に移転したようです。 聖聚院の遺物は清浄華院に移されたようで、宗入の像もそのうちの一つであったようです。台座の裏には「山城国乙訓郡物集女村聖聚院開基影像」とあり、まさに物集女村聖聚院の開基、宗英のお像であることが分かります。

 最早廃寺となってしまったお寺ですが、元は信長にも手を焼かせた武将を供養する寺であり、移転後は清浄華院の隠居所、蜂須賀家の香華所の一つとなりました。
 
 宗入像は、戦国武将・宗入の姿を偲ばせる唯一のお像であり、また廃寺となった小さな寺の変転を教えてくれる貴重な資料という事も出来ます。

慶長十五年梵鐘銘―近衛殿北政所心光院と松林院祖看


  • 清浄華院の梵鐘鐘楼堂

 
 清浄華院鐘楼堂に掛かる梵鐘は江戸時代のはじめ頃に造られたものです。400年以上昔に鋳造された梵鐘ですが、現在も朝夕に境内にある僧侶養成道場・浄山学寮の学生たちによって毎日撞かれています。また大晦日の除夜の鐘には一般の方々も撞くことができる、身近な鐘です。

 鐘の側面「池の間」と呼ばれる部分に銘文があり、慶長15年(1610)に大坂堺の阿弥陀寺住職恩蓮社良道和尚の発願により鋳造されたもの、と刻まれています。恩蓮社良道和尚は原誉(「報誉」とも伝わる)良道上人ともいい、この15年後の寛永2年(1625)に清浄華院39世法主となられています。 他にも全体に鋳造寺の寄進者・結縁者と見られる人名・法名が数多く記されており、中には正親町天皇などの名前も見えています。

 

  • 近衛殿北政所心光院はだれか

 
 主たる寄進者として記される「近衛殿北政所心光院快誉珠信」なる人物―「近衛殿」とは五摂家の一つ近衛家のこと、「北政所」とは正妻のことです。近衛家の当主の正妻ですから、それなりの人物であると思われますが…実際の所よく分かりません。 当時存命で近衛家の当主となる人物は近衛前久、近衛信尹・近衛信尋の三人ですが、信尹・信尋については妻妾に関する伝がほとんどありません。
 
 前久に関しては正室・久我晴通女、側室として波多野惣七女、若狭武田氏の2名、少なくとも三人の妻妾が居たことが知られています。このうち信尹の母とされる若狭武田氏に関して、寛永7年寂の「近衛家政所」として「寶樹院殿准二品快誉」という法名が記録されている(法華宗善正寺過去帳「東西歴覧記」)そうで、「快誉」が同じと言うことで関係が指摘されています。 「寶樹院」は前久の後室として諸史料にも登場する人物ですが、「快誉」以下の戒名は別の物も伝わっています。近衛家は基本的に臨済宗の檀徒であり、「誉」の字は浄土宗(鎮西派)系の法名で使われる文字(誉号)ですから、もしかすると、浄土宗式と臨済宗式の戒名が別々にあった、ということも考えられます。
 
 しかし、慶長10年には信尹が関白になっていますから、前久はすでに隠居しているはず。慶長15年時点で前久を指すとすれば「前近衛殿」といった表現を用いるのではないでしょうか。そうなると宝樹院=心光院とは言えなくなってしまいます。

 一方前久の孫、信尋は慶長15年時点で11歳(慶長4年生まれ)になります。すでに元服はしているもののちょっと考え辛い。そうなると年代や状況的に一番有力なのは近衛信尹の正室ということですが、彼には正室(「北政所」)が居なかったと言う事になっています。 信尹は戦国時代の気風か、公卿ながら破天荒な人生を送った人として知られています。関白の位を巡って秀吉と渡り合い、朝鮮出兵へ同行しようとしたり、後陽成天皇の勅勘を蒙って薩摩へ配流となったり・・・しかしその人生の奥深さか、書画芸能に優れ、「寛永の三筆」として讃えられています。

 
 何しろ心光院という方は現在知られている他の記録には出てこないようです。 五摂家筆頭近衛家を北政所として支えた人物でありながら、ただ一つ梵鐘に名を残す女性。一体誰なのでしょうか・・・

 

  • 織田信長の動向を伝える一級資料『道家祖看記』の筆者 松林院祖看鐘楼堂 

 
 梵鐘鋳造の発願者(発起人)は阿弥陀寺の良道和尚だったようですが、その賛同者として15人のお坊さんの名が銘文に刻まれています。筆頭にあげられている「牛黒西堂」は清浄華院の筆頭塔頭「松林院」の14世住職です。ここでいう「西堂」は塔頭の住職の事を指します。 その次に刻まれている名前は「祖看大徳」。実はこの人、織田信長上洛の動向を伝えた文献として有名な『道家祖看記』の著者、松林院祖看であるとされています。

 松林院祖看は、信長の尾張時代からの家臣 道家尾張守の末子で、寛永20年(1643)80才の時に立入宗継の孫・立入貞頼の依頼で、父の述懐をまとめたというのが『道家祖看記』だそうです。 当院檀家の立入宗継は正親町天皇の勅使として信長に上洛を促した人物として知られていますが、道家尾張守と宗継とは共に磯谷久次の娘を娶った義兄弟でした。
 
 朝廷に仕える商人だった宗継は、戦国乱世に荒廃した御所を立て直すため、永禄7年(1564 永禄元年説もあり)と永禄10年の二度にわたって尾張にいる織田信長を訪ね、朝廷への経済援助を求めています。尾張下向には舅の久次も同行し、尾張の道家尾張守は信長の家臣として二人を接待したと言います。正親町天皇や朝廷の意向を受けた勅使とは言え、三人の人脈による働きも大きかったことでしょう。信長は天皇の要請を受けて上洛を決意、彼の天下統一が始まったのでした。

 この辺りの事情を伝えた文献は『信長公記』や立入宗継文書などいくつかありますが、当事者の述懐を直接聞いた人物が記した『道家祖看記』は、信長の性格や動向を伝える重要な文献とされてきました。

 なお祖看は塔頭松林院の住持だったと伝わっていますが、松林院歴代の中に該当する人名は登場しません。鐘銘より松林院住職牛黒の次席に当たるような人物であったことは間違いないのですが、住持だったかどうかは分かりません。 14世牛黒は寛永18年(1641)に寂しており、15世は正保2年(1645)に寂した然誉吸雪。16世徳翁は延宝8年(1680)寂なので寛永20年に80歳というのは、ちょっとあり得ない。吸雪が祖看であれば、寛永20年80歳で2年後の正保2年に寂、いうことで妥当な年代と言えますが・・・戦国時代の清浄華院は、時代の変わり目であったためかあまり史料が残っておらず、あまり断定的なことは言えないようです。
 

【清浄華院梵鐘銘】是鐘者泉州堺阿弥陀寺住持恩蓮社良道和尚本願故以法界衆生志於攝州住吉鋳立之奉祈二諦繁昌之福智者也 慶長十五(庚/戌)年三月十六日 鋳物師宗安 牛黒西堂 祖看大徳 恵傳大徳 金隆大徳 輪諦大徳 岌説大徳 休閑大徳 恵閑大徳 性吟大徳 慧即大徳 朝巴大徳 曜譽西雲 僧延大徳 惠林大徳 法空性觀
 諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽近衛殿北政所    心光院快譽珠信   淨華院

※銘文は東京大学史料編纂所データベースの金石文拓本史料データベース「京都市上京区寺町広小路上ル清浄華院鐘銘」を参考に原物参照にて訂正しました。

大塚丹後と寿徳院祖閑


  • 大塚丹後覚書

 
 清浄華院の過去帳に寿徳院祖閑という人が出て来ます。寿徳院とは江戸時代の天保年間まで存在した塔頭(境内寺院)の事で、現在のつきかげ苑の敷地、無量寿院の隣りにありました。その寺院の歴代の一人として出て来るのが祖閑です。 祖閑の記事は、元禄時代に亡くなった大塚助十郎こと素信軒の妻、桂光院(人名)の先祖に関する覚え書きの部分。 面白い内容ですので紹介しましょう。

 桂光院の戦国時代の先祖・''大塚丹後''は、森武蔵守が尾張金山城在城の時より仕え、その姓を頂き森丹後とも名乗っていた。
 丹後は娘の''勝女''を豊臣秀次の三十六人の妾の一人として嫁がせていたが、秀次が秀吉より謀反の疑いを掛けられ切腹すると、秀次の一族は妾子たちも含め誅殺される事になってしまった。
 丹後は勝女を助けるため、処刑の前夜に尾張国生まれで縁があった寿徳院住持祖閑と計り、下人に変装して乗物を担いで秀次の屋敷であった聚楽第へ。
 いぶかしむ門番には「香蔵主さま(孝蔵主。秀吉の妻北政所ねねの側近)の乗物である」と答えて中へ。丹後と祖閑は無事勝女を助け出したという。

 
 豊臣秀次は実子に恵まれなかった秀吉の養子となり、その後継者として関白にまで登り詰めました。しかし秀吉と淀殿との間に秀頼が誕生すると、次第に疎まれるようになり、秀吉から謀反の疑いを掛けられて高野山に蟄居中に自害してしまいます。それでも秀吉の疑いは晴れず、一族郎党、妻子眷属に到るまで、処刑される事になってしまいました。殺されるはずだった秀次の妻妾の中に大塚丹後の娘「勝女」がおり、処刑前夜に救出の手伝いをしたのが寿徳院祖閑であったというのです。
 
 調べてみますと、「森武蔵守」とは尾張時代より信長に仕えた森長可のことのようです。森長可は森蘭丸の兄、というと分かりますでしょうか。「大塚丹後」は長可の家来でのち津山藩家老となったことで知られる大塚丹後守の事のようでかす。大塚丹後守は頭脳派外交官として活躍した人物として知られ、主人を助けたエピソードが幾つか伝わっています。
 
 助け出した話ばかりでその後の事ははほとんど書かれていないのですが、寿徳院祖閑との関係からか大塚丹後の石塔が当院に建立され桂光院ら子孫が守っていたようです。大塚丹後守の娘が秀次の妻妾の中にいたかどうか他の記録からは見出せません。大塚丹後守の子孫である桂光院のもとに先祖の行跡を記した書付が残っており、享保年間になってその書付の内容を本山の過去帳に写したと言うことらしいです。百年以上の経ってから記録された記事ですから旦那寺との繋がりを語るための脚色はきっとあるでしょう。

 
 秀次誅殺はその一族一党を全て処刑し「畜生塚」と彫りつけた一つの塚に埋めるという、日本歴史上稀とも言える残忍な事件として知られています。その事件にまつわる一つの伝説として、伝わったおはなしです。

 寿徳院は天保年間に取り壊されてしまいましたが、前項で記した「道家祖看記」の著者松林院「祖看」と寿徳院「祖閑」、ほぼ同時期の人物であり名前の音も一緒。おそらく同一人物ではないでしょうか。「道家祖看記」が記されたのは寛永20年(1643)、この時祖看は80歳といいますから、文禄4年(1595)だと32歳になります。変装して姫を助け出すなら丁度良い年ごろ(?)になるでしょう。 ちなみに大塚丹後の石塔は『京都名家墳墓録』に銘文等が紹介されていますが、現在は行方不明です。
 

  • 大塚主膳の井戸

 
 大塚家の記録はもう一つエピソードが書かれています。
 

 森丹後(大塚丹後守)の長子、大塚主膳は森美濃守右近(森忠政)に仕えた。 寛永年中、主膳は美濃守の上洛に奉供したが、美濃守は大文字屋宗味宅の振る舞いを受けて「食傷」で死亡してしまう。 主人を失うことになったが主膳は、森采女らとともに上洛中の将軍徳川家光に森内記(森長継)をお目見えさせ美濃守の跡を継がせるため奔走し、成功する。 この時、主膳が旅宿としたのが浄華院だった。この年京都は大干ばつで、浄華院の浅い井戸は涸れてしまっていた。そこで主膳は家来を使って井戸を浚い、深く堀り直した。以後この井戸は涸れることが無かったという。

 
 調べてみますと、長継の家光引見は寛永11年の事となります。この井戸の場所について、「方丈北の方」とか「台所」の井戸などと書かれており、古い絵図などを参照すると、おそらく大殿脇に現存する井戸(非公開)の事だろうと考えられます。方丈や台所を普請する際もそのまま残すべき、とも書かれています。現在底は砂が入れられ水面は見えませんが、今でも井戸枠に水滴が付きます。

地蔵堂の染殿地蔵


 

  • 清浄華院の地蔵堂

 
清浄華院の地蔵堂は寺町通りに面する総門の南脇にあります。この建物はもともと総門に付属する門番小屋でしたが、現在の不動堂の前あたりにあった地蔵堂がつきかげ苑建設に伴い取り壊される事になったため、平成23年に地蔵堂として改築されました。この為寺町通り側には格子のついた出窓が付いています。
 
 江戸時代まで遡ると、総門の南側つまり境内南西角に地蔵院という塔頭(境内寺院)があったようです。
 地蔵院は記録に沢山登場しますが、住職が居たり居なかったり、表記も地蔵「院」だったり地蔵「堂」だったりして、どうやら正式に認められているお寺ではなかったようです。境内にあった勢至堂(現存せず)も同じような扱いであったようです。
 また、最古の境内図(元禄7年)を見ると、地蔵院が有るはずの境内南西角の位置には「風呂屋敷」と書かれていてたりします。この風呂屋敷についての詳細は不明ですが、この跡地にできた地蔵院の本尊が、現在の地蔵堂本尊・地蔵菩薩像であったようです。
 

  • 子授け安産の地蔵菩薩


 江戸時代の記録を見ると、7月23日・24日に地蔵会が行われて居たようです。京都を中心に、この時期行われる地蔵盆の事でしょう。
 「マンダラ」を掛けたという記事が見られますが、これは現在も伝わる『冥界絵相』のことと思われます。大きな三幅揃いのいわゆる「地獄絵」ですが、中央に地蔵菩薩、左右に閻魔王などの十王、そして地獄の様子が描かれています。地獄の所々には苦しむ亡者を助ける地蔵菩薩が描かれており、地獄へ堕ちぬようにと善を勧め、また地蔵の救済を説くお説教が行われていたのでしょう。
 文久三年(1863)の記事を見ると、
 

7月23日、地蔵会につき、本坊より饅頭や餅、丈室(法主)より青物(野菜)などをお供え。夕刻より提灯へ蝋燭を灯す。
 同24日、地蔵堂へ(法主)お下り、阿弥陀経、念仏一会、例の如し(何時も通り)。夕方より提灯へ蝋燭。


 などとあります。提灯を飾ったとありますから、暗くなってから縁日のような事が行われていたのかもしれません。「町方」が群参したとか、鳴物停止(皇族や将軍などの要人が亡くなると慎みのため一定期間鐘などを鳴らすことが禁止された)のため人が全く集まらなかった等の記事が見られ、例年沢山の人がお参りしていた様子が窺えます。

 近代には節分の時にお祭りが行われたようで、「安産子育て地蔵尊節分祈願会」と記したのぼり旗が残っています。このお祭りは、身代り泣不動尊の節分祭と併修されていたようで、護摩会やくじ引きなどが行われ盛大に行われていたようです。
 

  • 梅宮大社本地仏伝説


 地蔵堂の地蔵菩薩には「子安地蔵大菩薩縁起」と題する縁起を記した版木が伝わっています。内容を紹介しますと、
 

 そもそも地蔵菩薩は梅宮大明神の本地仏である。梅宮大明神は「子授け安産の祈願のあるものは、御前の砂を取って襟や帯に入れて持ち歩け、そうすれば願いは叶う。ただし後には清砂を供えよ」と託宣(お告げ)をしたといい、嵯峨天皇の后も同様に祈願なされ、仁明天皇をお産みになられた。今も産婦が産み月にこの社の砂を頂いて諸事し、後に清砂を供えるのはこの託宣によるものだ。
 この明神は地蔵菩薩の垂迹(仮の姿)である。地蔵菩薩が立てた10の誓いの中には「女人泰産」の誓いがある。神と仏は一体(本迹一致)であり、不思議なご利益がある。信ずべし。


 梅宮大明神は現在の右京区梅津にある梅宮大社でしょう。嵯峨天皇の后・橘 嘉智子が祈願をして仁明天皇を産んだことから、子授け安産で名高い神社です。コノハナサクヤヒメを祭り、造酒や橘氏の氏神としても名高いようです。現在も跨ぐと安産となるという「またげ石」が有名で、版木にある「産砂」の信仰もあったそうです。
 
 この版木の裏には「清浄殿什物 地蔵院縁起」と墨で書かれており、現在の地蔵堂本尊の縁起であると見て良いと思います。しかし、版木には梅宮大社が安産の神様であり地蔵菩薩がその本地、と彫られているだけで、「清浄華院の地蔵像」には本文中一切触れていないなかったりします。よくある奥書にも清浄華院という文字は出て来ません。
 
 正直梅宮大社と清浄華院には今のところこの版木以外に全く接点が無く、何か唐突な気がします。「地蔵院の本尊は地蔵」=「梅宮大社の本地仏は地蔵」=「地蔵院の本尊は梅宮大社の本地仏」という三段論法によって、子授け安産に名高い梅宮大社と、地蔵院を結び付けて霊験を語ろうとしたのかなぁ、という感じを受けます。清浄華院を「清浄殿」という言い方は幕末によく見られるもので、そもそも裏面墨書も後から書かれたもののようにも見えます。
  
 いずれにしろ、地蔵院の旧本尊、地蔵堂の地蔵尊が安産や子安のご利益で知られていたことは間違いないようです。
 

  • 染殿地蔵


 地蔵堂の地蔵尊は「染殿地蔵」と呼ばれていた事があったようです。大正時代に奉納された水引幕など「染殿地蔵」と記されたものが幾つか残っています。
 
 「染殿地蔵」というと四条寺町にある染殿院が有名です。四条道場と称えられた金蓮寺の末院で時宗のお寺で、ご本尊の地蔵尊には「染殿后」と呼ばれた清和天皇御母・藤原明子が祈願し、清和天皇が生まれたという由緒があり「染殿地蔵」と呼ばれて厚い信仰を受けています。妊婦さんが巻く腹帯・岩田帯なども出しており、安産祈願のお寺として有名です。
 
 実は清浄華院付近は染殿と呼ばれた藤原明子の住まいがありました。清浄華院の住所は北之辺町ですが、すぐ南に染殿町という地名があり、また梨木神社境内にある「染井」も染殿に由来するもの。 更に言えば清浄華院の開基は清和天皇。その母「染殿后」藤原明子とはご縁が深い。そこで染殿院の地蔵尊と絡めて、当院の地蔵尊の染殿后由緒の安産子授けの地蔵だという伝承が生まれたんでしょう。
 

  • 中山慶子さまご信仰の地蔵尊


 明治天皇のお母様・中山慶子(よしこ)さまもこのお地蔵さんを信仰していたという言い伝えがあります。ご実家の中山家は清浄華院の檀家ではありませんが、清浄華院に程近い御所内の石薬師門を入ってすぐのところに屋敷を構えていました。明治天皇のお生まれになった中山邸跡は柵に囲まれて保存されていまして、中には「祐井」とよばれる天皇産湯の井戸が伝わっています。
 
 慶子さまはこの地蔵菩薩を信仰して足繁く参詣されていたといい、そのご利益にて後に明治天皇となる祐宮を授かり、懐妊後もお散歩がてらお参りになり(お公家さんは実家に帰って子供を生む習慣がありました)、安産されたのだそうな。
 
 このお話、実は地元に伝わっていたもので、ある日、地元の年配の方が事務所にいらして、もう私ぐらいしか知らないだろうから、とおっしゃって教えてくださいました。
 
 戦前戦後ころは不動講の方々が「身代泣不動尊」と「安産子授け地蔵菩薩」を一緒にお祭りして節分祭を行っていたと言う記録があります。福引きや護摩会も行われて盛大に御祝いされていたようです。現在も浄山不動講が8月28日に数珠回しなどを行い地蔵盆大祭をおこなっています。
 

  • 発作を治めたお地蔵さま直伝のお灸


 寛延2年(1749年)刊行の説話集『新著聞集』に、清浄華院の染殿地蔵さまと関係があるかも、というお話が出ています。
 
 増上寺の忍了という僧(「所化」)は久しく胸痛を患い、針灸や投薬などに努めていましたがなかなか効果はありませんでした。元禄13年7月6日、京都の浄華院に滞在していたところ、胸痛の発作を起こし、耐え難い痛みに襲われました。そんな中、夢の中に僧が現れ、「お前によく効くツボを教えてやろう」と言い、詳細にお灸のツボを指導してくれました。目が覚ました忍了が夢中の僧の言う通りにお灸をすえてみると、発作は止まり、後も起こらなくなりました。

 忍了は常々地蔵菩薩を信仰していたので、夢中の教えは地蔵菩薩の導きだったのではないか、と結んでいます。
 
 日々地蔵菩薩を信仰していた忍了が夢中で教えを受けた場所が清浄華院であるというだけで、染殿地蔵さんのご利益だった、という話しではなかったりしますが、当時も地蔵堂(地蔵院)があったはずですから、何かしら関わりがあるのでは、と思ったりもします。

 同じく境内にあった勢至堂などは招聘した遠地の僧侶などの宿泊所として使われたりしており、もしかしたら地蔵堂もそのように使われ、江戸から来た忍了が滞在していた、という事かもしれません
 
 ちなみに、その後、忍了がこの事を中村傳左衛門と言う人に話すと、傳左衛門は「その治療法は『名灸』だ。先年目を患った際に或る僧の教えと通りにしたが、たちまち治ったものだ」と語ったそうです。

 傳左衛門の語る「或る僧の教え」と忍了の「夢中の教え」との関係がちょっと繋がらない感じもしますが、神仏が僧侶の姿で現れて助けてくれる、という信仰があったのでしょう。やはりお地蔵さまは我々の身近にまで降りて来られ、我々を見守りお導き下さるほとけ様なのだという事なのでしょう。
 
『新著聞集』の原文には詳細なツボの位置も記されていて(ネットで検索してみると有名なツボらしいです)、元禄13年7月6日なんて詳細な日付まであり、なかなか生々しい記述とも思います。確かに増上寺の忍了さんは実在する僧侶で、元禄18年に江戸へ帰るので寺中に挨拶して回った、という程度の記事ですが、清浄華院の日記『日鑑』に少しだけ出てきます。

京都三大大火と清浄華院


 江戸時代、京の町は数度にわたって大火に見舞われ、多くの犠牲者を出しました。 中でも宝永5(1708)年3月8日に起きた「宝永の大火」、天明8(1788)年1月30日の「天明の大火」、そして幕末の元治元(1864)年7月19日に蛤御門の変で発生した「元治の大火」、この三つの大火が有名です。享保の西陣焼けなど広域を焼いた火災は他にもありますが、甚大な被害を及ぼした事から京都三大大火と呼ばれています。清浄華院はこのうち宝永、天明度の大火で類焼しています。
 

  • 【宝永の大火】 

 
 当時の清浄華院の寺務記録『日鑑』によると、「油小路姉小路下ル西側紙屋」より出火した火災は「丑寅」(北東)へ焼け広がり、御所を始め公家町を焼いて夕方には南へ「火さかり」とあり、翌日の夕方まで鎮火せず、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた地域が類焼しました。
 
 この時、清浄華院は寛文11(1671)年の火事の後、伽藍の再建が進んでいた時期でしたが、「当寺不残炎上」ということで現在の勅使門にあたる北門(薬医門)以外は全て焼失してしまいました。日鑑の筆者は「以之外夥敷事無先代(もっての外の事でひどい事は前代未聞である)」と記しています。 但し、大殿の法然上人像や本尊の阿弥陀如来像などの宝物はご法主47世了秀上人が自ら鴨川の河原に「持参」して無事でした。その後ご法主は末寺の西蓮寺へ避難しますが、門番六兵衛が焼死するなど人的被害も発生しています。

 一山類焼と言う大変深刻な事態。当時は「二万日回向」という大法要を控えており、また境内移転の計画などもあったようですが、それらが火災で延期となるなど、伽藍を焼いた以上に様々な影響があったようです。
 

  • 大火の影響

 
開帳と御土居薮拝領 しかし時の御法主、第47世章誉了秀上人は大変「やりて」であられたようで、岩槻浄国寺在住の時、火災で失われた本堂を出開帳事業で再建された実績をお持ちの方でした。
 
 今回も開帳事業による再建をお考えになられたようで(計画は火災以前からあったようです)、清浄華院では早速その年の秋には泣不動尊の居開帳(祀られている寺院で秘仏を拝観をさせる事)を行い、大成功を収めました。さらにこの開帳の評判は宮中にも聞こえたようで、霊元上皇は泣不動尊を宮中へ召し寄せて叡覧に及んでいます。この時の縁で、清浄華院は宮中に保管されていた「泣不動縁起絵巻(永納本)」の下賜を受けることになります。さらに、翌年の宝永6年には江戸回向院で泣不動尊の出開帳(出張のご開帳)が行われました。上皇ご下賜の絵巻も大きな目玉となりました。この江戸開帳も成功裏に終わり、江戸で泣不動尊が登場する歌舞伎まで演じられました。
 
 また、これも火災以前からの動きではありますが、火災後に境内東を塞いでいた御土居藪の拝領に成功しています。秀吉が作らせ幕府が管理していた御土居藪は清浄華院にとっては町場として伸展してきた河原町通(御車道)界隈へ行き交うのに邪魔であり、また薮地であるため捨て子や植生の取り扱いなどで気を配らなければならず、厄介な存在でした。しかも、清浄華院より北は土居の撤去、土地の下げ渡しが進んでおり、清浄華院へも早く土地を下げ渡してほしいと幕府と交渉を続けていました。

 
 当初は墓地が狭く皇族と一般民衆が入り乱れて墓を営んでいるのは不都合であるから土地が欲しいという主張でしたが、火災後は「二万日回向を控え、また毎年の御忌などの大法要の際、また今回の火災のようなことが起きたときに、河原町通り側へ行き交えないのは「火之用心悪敷御座候」につき、と、巧みに申し立てています。その結果、御土居藪の拝領に成功しています。
 

  • 破壊と復興

 
 破壊があれば復興がある、という事でしょうか。この火災復興のために催された開帳事業によって泣不動尊の信仰が隆盛を迎えた事には間違いなく、この後享保年間には48世龍誉哲冏上人が信者組織である「不動講」を結成しさらに不動堂が建立されるなど、現在に続く不動信仰の礎が築かれました。また、御土居藪の跡地には享保17年に東山天皇御母の敬法門院の墓が営まれる事になり清浄華院と皇室の結びつきを確固なものとしました。
 
 実は、清浄華院は宝永の大火以前にも寛文11(1671)年に自火で炎上、この際にかなり中世以来の記録類を多く失った様です。当時のご法主第45世天誉雲龍上人は縁起類を再編纂しており、そこには中世来主張されてきた縁起がかなり改編されている様子がうかがえます。慈覚大師が開山といった主張は雲龍上人以前には見られず、逆に実質開山である向阿上人の業績や称光天皇や室町幕府とのなどは縁起から消し去られてしまいます。この時の火災によって記録類が失われたことによって、中世的な世界観による縁起から脱却し、近世的な秩序制度に基づく縁起が形成されていったのでは、と考えています。