清浄華院の歴史

創建-禁裏内道場


 清浄華院の歴史は古く、その創始は平安時代までさかのぼることができます。貞観2年(860)、時の天皇である清和天皇の勅願により、天台宗の慈覚大師円仁が宮中(天皇の住まい)に禁裏内道場として建立したのが始まりです。
 当時は円(円教、天台のこと)・密(密教)・戒(円頓戒)・浄(浄土教)の四つの学問を学ぶ四宗兼学の道場であり、かつまた国家泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもありました。
 天皇の居ます宮中にあったため、死の汚れを避け、葬式を行わない寺院であった事から「清らかな蓮の花の如く清浄な修行道場」といった意味を込め、清浄華院と名付けられたと伝わっています。

改宗開山・法然上人


 やがて平安時代も終わろうとする承安5年(1175)、浄土宗の開祖である法然上人は長年にわたるご研鑚の地、比叡山を去って東山吉水の地に草庵を結ばれ、念仏を称えることこそ唯一の救いの道であると説かれます。
 当時の仏教界に新風を吹き込んだ法然上人の教えは、道俗・身分を問わず潮のように広まっていき、その教えに触れようとしたのは、時の天皇も同様でした。
 後白河法皇は法然上人を宮中に呼び寄せ教えを請い、高倉天皇・後鳥羽上皇とともに上人を戒師として円頓戒のご受戒も受けられました。後白河天皇は法然上人の教えに大変感動され、参内の宿舎とされていた当院を法然上人に賜りました。
 これによって清浄華院は浄土宗に改められ、以後念仏道場としての道を歩むことになったのです。このため清浄華院では慈覚大師を創立開山、法然上人を改宗開山として仰いでおります。
 

 
 

向阿上人の活躍


 清浄華院の歴史を、確実な歴史資料によって追うことができるようになるのは第五世向阿上人(~1336)の時代からです。向阿上人は始め天台宗の三井寺(滋賀県大津市)にて出家しましたが名声を厭んで24歳で三井寺を出て、法光明院の礼阿然空上人のもとで浄土門に帰しました。
 向阿上人の業績は仮名法語『三部仮名抄』を著したことで知られています。難解な漢文の教義書が多いこの時代、わかりやすい仮名混じり文で浄土宗の教えをまとめた『三部仮名抄』は、後世まで広く読まれました。他にも著作が知られており、その高い文学性は浄土宗内外でも高く評価されています。また和歌にも秀で『新千載和歌集』にも上人の和歌が収録されています。
 
 当時の清浄華院は三条坊門高倉(現在の御池通高倉北東角)にありました。向阿上人は建物などとともにこの土地を兄弟子の専空上人より譲り受け、伽藍を構えました。この場所は後醍醐天皇の富小路内裏や足利尊氏・直義邸に近く、当時の政治の中心地ともいえる場所でした。
 
 この頃の清浄華院は亀山天皇皇子・恒明親王や太政大臣・三条家重などの皇族や公家衆の帰依を受け、越前や丹波などに領地の寄進も受けていました。清浄華院はこうした貴顕の帰依を得て、活発に活動していました。
 
 なお、向阿上人の師、礼阿上人は嘉禄法難以後九州や関東が拠点となっていた鎮西流(現・浄土宗)の京都での再興隆を目指して活動され、浄土宗三祖の良忠上人を京都にお迎えになられた方です。仁和寺西谷に法光明院を創建(『鎮流祖伝』)して布教され、のちに「一条派」と呼ばれる清浄華院の門流の祖になっています。
 
 このため一条派は一時期「法光明院義」とも呼ばれていたようですが、向阿上人が活躍したことで拠点は清浄華院へと移り、法光明院は礼阿上人の弟子・良智上人に譲られ一条派勢力下の一寺院となっていたようです。しかし、良智上人の弟子の中には真言律(北京律)の泉涌寺に拠りつつ鎮西義を宣揚した無人如導(見蓮房)などがおり、法光明院も真言律へ近付き、室町期には浄土宗の寺でありながら南都西大寺(南都律)より律を受けるという形で存続していました。如導の末流は見蓮上人門徒と呼ばれ中世念仏教団の一勢力となりしばらく存続したといいますが、戦国期に廃絶したようです。

土御門室町へ


南北朝動乱の只中、建武三年(1336)に多くの弟子を育てた向阿上人が遷化され、六世玄心上人の時代になると、清浄華院は土御門室町(室町通上立売)に移転します。

 これは清浄華院の境内地が尊氏創建の等持寺に取り込まれることになったからで、土御門室町の境内は亀山天皇皇女・昭慶門院の御所跡の寄進を受けたものとされています。中世文学「増鏡」には御所跡が寺になったとが記されています。以後戦国時代まで清浄華院はここに伽藍を構えました。この付近には現在も「元浄花院町」という地名が残っています。
 
 この場所は光厳天皇以後の御所となった土御門内裏に近接していました。また足利義満によって「花の御所」こと「室町第」も北方近くに営まれることになり、政治と文化の中心地となりました。
 
 こうしたことは清浄華院の発展に大きな影響を与え、皇室や公家衆の帰依はさらに深まり、将軍家や武家たちの信仰も受けるようになっていきます。八世法主には伏見天皇皇子尊熈親王の子の敬法上人が就かれており、また九世定玄上人は檀越の万里小路家の出身です。室町幕府三代将軍・足利義満も度々清浄華院を訪問し、死後の三回忌法要の導師を定玄上人が務めたりもしています。また北陸地方に門末寺院を広げ、支配を及ぼすようになったのもこの時期であったようです。

室町時代の栄華


 十世の等凞上人は、万里小路時房、伊勢貞国など、多くの貴顕に帰依を寄せられ活躍されました。特に称光天皇の帰依は厚く、応永三十二年(1425)天皇が危篤に陥った際、等凞上人は召されて枕元に仏画を掛け浄土法門を説きました。この時は体調が回復したため、天皇は亡くなりませんでしたが、上人は改めて臨終善知識(臨終に寄り添う僧侶)に定められました。以後天皇の逆修法要(生前に行う追善法要)を命じられるなど親しく帰依を受け、、正長元年(1428)の天皇臨終の際には定められたとおり、臨終善知識を務め上げました。
 こうした功績と清浄華院の由緒により、翌二年には浄土宗初の香衣着用勅許を賜りました。現在浄土宗で用いられる色衣は等凞上人が初まりです。
 
 同年、室町幕府六代将軍・足利義教や後小松天皇の寄進によって仏殿を再興するなど、等凞上人の時代の清浄華院は大変に栄えます。
等凞上人没後には、後花園天皇より「佛立恵照国師」の号を賜り、こちらも浄土宗初の慶事でした。
 
 等凞上人の活躍の裏には、元祖法然上人が説かれ二祖聖光上人より三祖良忠上人へと伝えられてきた鎮西流浄土宗の正しい念仏の教えと、法然上人が大切にされた円頓戒、両方の譜脈を、等凞上人が正しく伝えている、ということがありました。一条派では当時より『末代念仏授手印』による相承の確認が行われており、万里小路時房は、代々の『末代念仏授手印』を拝見してその他流に比肩ない正統性を確信し、等凞上人の香衣着用に惜しみない支援をしています。
 
 中世道俗問わず結縁のため受戒するものが多かった円頓戒に関しても等凞上人は「黒谷戒法」の「正流」を伝えているとされ、清浄華院は天台系以外の寺院で唯一、円頓戒授戒の場となっていました(『法勝寺戒場記』)。
 
 十一世良秀上人の時代には当時所蔵されていた宝物類の目録が作られており、数々の名宝を書き記しています。この目録に記された宝物の多くが現存しています。浄土宗の本山として法然上人や歴代ゆかりの品々はもちろん、中には舶載品と考えられる品々も含まれています。勘合貿易を再開した足利義教の帰依を受け、その後も幕府や朝廷の帰依を受けた寺にふさわしい宝物といえましょう。
 
 この頃の清浄華院はまさに「鎮西一流之正脈(『建内記』)」として、浄土宗の筆頭寺院としての格式をととのえ、栄華を極めていました。早くから皇室や幕府・公家衆の帰依と支援をうけ一山組織を確立した清浄華院は、浄土宗が一宗派として貴顕に認められ大きくなっていくきっかけを作った寺院といえましょう。
 
 清浄華院が今も浄土宗の大本山であるのは、こうした由緒によるものでしょう。

 
 

応仁の乱と戦国の世


 応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が勃発し、以後十年にわたって京都は戦火に包まれました。室町第に近かった清浄華院も度々戦場となり、伽藍は灰燼に帰してしまいました。これにより清浄華院の勢力は大きく衰退してしまいます。仏殿を再興したのは、乱勃発後二十年もたった後のことでした。
 
 順次復興を遂げていった清浄華院でしたが、戦国時代になると他の本山も徐々に力を持つようになり、また地方では守護大名・戦国大名が台頭し、各地の所領も奪われてしまいました。
 
 しかしながら、皇室や公家衆の帰依は変わらず、この頃の清浄華院は朝廷や公家の日記に頻繁に登場します。皇室帰依の寺院としての威厳は保ちつづけ、歴代の住職は朝廷より紫衣勅許を賜わり、度々参内して天皇に浄土法門を説くなど、親密な関係を築いていました。
 
 この頃の清浄華院の境内の様子は『洛中洛外図屏風』(上杉本・東博摸本・歴博D本)にも描かれています。戦国の混乱の只中、清浄華院にとっても斜陽の時代ではありましたが、京都の有名寺院の一つとして扱われていることが分かります。

近世の清浄華院


 天正年間(1573~1592)、政権を握った豊臣秀吉は京の町の改造に乗り出し、鴨川西岸に洛中の寺院を集め、寺町を造ります。清浄華院が現在地に移ってきたのはこの時で、以後清浄華院はこの御所の東、寺町広小路の地で現在まで法灯を守り続けています。
 
 江戸時代になっても、皇室や公家の帰依は変わらず、境内の墓地には歴代の天皇の皇子・皇女の墓が営まれました。これは、清浄華院が天皇へ嫁した公家の女性たちの菩提寺であったためで、彼女たちが生んだ子が葬られたためです。東山天皇の母、敬法門院(松木宗子)や桃園天皇母の開明門院(姉小路定子)も、生前より実家の菩提寺である清浄華院に帰依を寄せ、墓地内に築地塀で囲われた御陵を営んでいます。
 
 一方、庶民信仰も顕著化し、特に泣不動尊の信仰は爆発的な隆盛を迎えます。境内には不動堂が建立され、信仰する人々によって不動講が結成され、江戸や大坂へ出開帳もしています。
 
 諸堂に祀られる諸尊にも、さまざまなご利益が謳われるようになり、大殿の法然上人像も「厄除圓光大師」と呼ばれて信仰されていました。
法然上人二十五霊場の巡礼も行われるようになり、多くの人々が訪れるようになりました。
 
 江戸時代の清浄華院の歴史は、『日鑑』という日記記録が残っており、日々どんなことが起きたのか手に取るように分かります。

小さな大本山


宮中の禁裏内道場として発足した清浄華院。千百有余年の間、常に京の中心・御所の近くにあり続け、皇室と京の人々とともに歩んできました。
 
 京の町は数々の動乱や災害に幾度も巻き込まれ、歴史ある寺院の多くも郊外に転出してしまいます。そうした寺院は郊外に広い境内を構えていますが、清浄華院は常に京の町中にあり続けました。
 
 清浄華院の境内・伽藍はけっして大きいとはいえません。しかしそれは常に京の町の人々に寄り添い続けた、清浄華院の長い歴史を証明しているともいえるのです。